―流の法―
「元々は、『遁甲術トンコウジュツ』と云ったんだそうです」
源光がそう切り出したのは、勘兵衛に問われたからである。
「お前の芸、ありゃ何て云うんだ?」 「遁甲って事は、忍術か?」
流石にこういう話になると勘兵衛は詳クワしい。
芸事に通ずると思えば、何にでも飛び付いてしまうせいで知識が豊富なのだ。
「忍術は遁甲術の一部でしかありません」
桃乃井が云うには、修業さえすれば何者にでも会得エトク出来る体術のみを伝承したのが忍術なのだと云う。 平安中期には滋岳川人シゲオカノカワヒトと云う遁甲の達人が輩出され、『滋川ジセン新術遁甲書』や『六甲六帖』なる書を遺ノコしている。 川人について、今昔物語集に逸話が遺されている。 「自分は今までしくじった事がないが、今回ばかりは大きな過ちを犯してしまった」 その日は姿を見えなくする呪文によって逃れたのだが、ふたりはまだ追跡を続ける土神たちの話を聞いてしまう。 その声に安仁は呆然ボウゼンとするが、川人は一計を案じる。 恐ろしく思いながらも我慢し、遂に朝を迎え、土神の祟りから逃れることが出来たのだと云う…。』 遁甲とは元々、人相・地形等を観る観察術や、隠蔽インペイ・掩蔽エンペイ術、体術等の総合的な護身術であったと解釈するのが一番近しいのではないだろうか。
寧ムシろ呪術は方術にあったと考えるのが、妥当だと推測される。
方術の元を辿ると道教の『抱朴子ホウボクシ』内篇巻第十七章に出てくる「六甲秘呪」にあり、『六甲六帖』は川人独自の方術を纏めたものだ。これらを鑑カンガみると、遁甲と方術に長タけた川人が方術を遁甲に加えたのは、自然の流れではないか。 後年、遁甲が専ら「奇門キモン遁甲」と謂う方位呪術と解釈されるようになったのは、この滋川流遁甲術の事を指している。 最も発展したのが修験道系の遁甲術で、これが源となり忍が生まれたと考えられる。
修験道は始祖の役小角エンノオヅヌ(役行者エンノギョウジャ)に始まり、大変な健脚が多い。
仏教、神道でも山々で修行を積むのだが、修験道ではほぼ一日中、山中を走り抜くのだと云う。
山岳信仰の為、どの宗派よりも山に詳しいのも特徴である。
山を隔ヘダてた他国の情報収集や、緊急連絡の際に修験者が重宝されたのは想像に難カタくない。長じて細人シノビ(細作する人)転じて忍者と呼ばれ、戦国期に暗躍することになった。 一方、滋川流遁甲術の正統ともいえる陰陽道では、朝廷の衰退とともに勢力を落として行く過程や、豊臣秀吉の農民化政策と徳川幕府の迫害政策により、土御門ツチミカド(安倍氏)を代表とする貴族階級は護マモられたが、それ以外の陰陽師達は壊滅的な打撃を受けた。そして、より高度な護身術を必要としたのである。 後継者不足の為、陰陽道と云う枠が邪魔になったのである…。
「それ以来、術の総称が無いんです」
永々と語った末に、源光はそう締め括った。
「名が無ぇんじゃ不便だったろ」
そう言いながら、内心源光の知識の深さに感嘆していた。
勘兵衛自身も知識は豊富なのだが、源光の知識の深さから較べれば『広く浅く』と云わざるを得ない。 そう思ったのは、源光の不思議の術や得体の知れない雰囲気とは無縁ではない。
勘兵衛はこの時をもって、源光を『お前』と呼ぶのをやめた。
「それが、全然不便じゃなかったんです」
源光の言葉に我に返った。
一瞬の間に考え事をしていたのだ。 比較の対象が無いのだから、そんな呼び方だけで十分だったのだろう。
「弱ったなぁ、名も無ぇんじゃ…」
某流何術と言う名がないと、収まりが悪い感じがするのだ。
「何かそれらしい言葉を教わらなかったのかい」
勘兵衛に言われるままに、源光は師の教えの一つを口ずさんだ。
「当派は陰陽一対、太極の混沌。
有無一対、正邪一対も亦然。留むる事を嫌ふ。
唱ずれば留まり、流るれば唱ずらん。
流の法にて与えせしむる」
「それだ!」
意味も解らぬままに、勘兵衛は膝を叩いた。
「それって?」
源光がきょとんと首を傾げる。
その仕草は桃乃井を思わせるような、あどけない稚拙さだった。 「流の法にて与えせしむるさ」
「流の法ですか」
「どうだい?」 「良い名ですね」
流の法の評判は上々だった。 勘兵衛に至っては小躍りせんばかりである。なによりも、噂を流した並木屋の鼻の穴を開かせた事が、嬉しくて堪らなかったのだろう。
「並木屋の連中も、さぞや悔しかろうよ」
人が悪そうに、にやにやと笑った。
「安心などは致さぬ事だ。並木屋は、ただでは起き上がらぬ」
尚庵はこの町に住んでいたのだから当然だが、旅芸者の勘兵衛達より、並木屋の噂を識シっている。 かなり非道な噂もあり、何度かお調べを受けた事もあるのだが、その度に証拠不十分で無罪放免になってしまう。 尚庵の話を聞いていて、そのうち勘兵衛は鼻で笑った。 いくらお役人を味方に付けていても、そうおおっぴらに脅していれば、庇カバいきれるものではない。 商売が出来て、暴力沙汰に成る事も無いのなら恐れる事など何も無い。
勘兵衛は固く、そう信じていた。
尚庵も並木屋の一件を目の当たりにしているだけに、勘兵衛の考えがよく解った。だが、胸が騒いで仕方が無いのだ。
「何も無ければ良いのだが…」
「なぁに、鹿さんの足が治るまでさ。そしたら、さっさと出て行くよ」
「元々は、『遁甲術トンコウジュツ』と云ったんだそうです」
源光がそう切り出したのは、勘兵衛に問われたからである。
「お前の芸、ありゃ何て云うんだ?」 「遁甲って事は、忍術か?」
流石にこういう話になると勘兵衛は詳クワしい。
芸事に通ずると思えば、何にでも飛び付いてしまうせいで知識が豊富なのだ。
「忍術は遁甲術の一部でしかありません」
桃乃井が云うには、修業さえすれば何者にでも会得エトク出来る体術のみを伝承したのが忍術なのだと云う。 平安中期には滋岳川人シゲオカノカワヒトと云う遁甲の達人が輩出され、『滋川ジセン新術遁甲書』や『六甲六帖』なる書を遺ノコしている。 川人について、今昔物語集に逸話が遺されている。 「自分は今までしくじった事がないが、今回ばかりは大きな過ちを犯してしまった」 その日は姿を見えなくする呪文によって逃れたのだが、ふたりはまだ追跡を続ける土神たちの話を聞いてしまう。 その声に安仁は呆然ボウゼンとするが、川人は一計を案じる。 恐ろしく思いながらも我慢し、遂に朝を迎え、土神の祟りから逃れることが出来たのだと云う…。』 遁甲とは元々、人相・地形等を観る観察術や、隠蔽インペイ・掩蔽エンペイ術、体術等の総合的な護身術であったと解釈するのが一番近しいのではないだろうか。
寧ムシろ呪術は方術にあったと考えるのが、妥当だと推測される。
方術の元を辿ると道教の『抱朴子ホウボクシ』内篇巻第十七章に出てくる「六甲秘呪」にあり、『六甲六帖』は川人独自の方術を纏めたものだ。これらを鑑カンガみると、遁甲と方術に長タけた川人が方術を遁甲に加えたのは、自然の流れではないか。 後年、遁甲が専ら「奇門キモン遁甲」と謂う方位呪術と解釈されるようになったのは、この滋川流遁甲術の事を指している。 最も発展したのが修験道系の遁甲術で、これが源となり忍が生まれたと考えられる。
修験道は始祖の役小角エンノオヅヌ(役行者エンノギョウジャ)に始まり、大変な健脚が多い。
仏教、神道でも山々で修行を積むのだが、修験道ではほぼ一日中、山中を走り抜くのだと云う。
山岳信仰の為、どの宗派よりも山に詳しいのも特徴である。
山を隔ヘダてた他国の情報収集や、緊急連絡の際に修験者が重宝されたのは想像に難カタくない。長じて細人シノビ(細作する人)転じて忍者と呼ばれ、戦国期に暗躍することになった。 一方、滋川流遁甲術の正統ともいえる陰陽道では、朝廷の衰退とともに勢力を落として行く過程や、豊臣秀吉の農民化政策と徳川幕府の迫害政策により、土御門ツチミカド(安倍氏)を代表とする貴族階級は護マモられたが、それ以外の陰陽師達は壊滅的な打撃を受けた。そして、より高度な護身術を必要としたのである。 後継者不足の為、陰陽道と云う枠が邪魔になったのである…。
「それ以来、術の総称が無いんです」
永々と語った末に、源光はそう締め括った。
「名が無ぇんじゃ不便だったろ」
そう言いながら、内心源光の知識の深さに感嘆していた。
勘兵衛自身も知識は豊富なのだが、源光の知識の深さから較べれば『広く浅く』と云わざるを得ない。 そう思ったのは、源光の不思議の術や得体の知れない雰囲気とは無縁ではない。
勘兵衛はこの時をもって、源光を『お前』と呼ぶのをやめた。
「それが、全然不便じゃなかったんです」
源光の言葉に我に返った。
一瞬の間に考え事をしていたのだ。 比較の対象が無いのだから、そんな呼び方だけで十分だったのだろう。
「弱ったなぁ、名も無ぇんじゃ…」
某流何術と言う名がないと、収まりが悪い感じがするのだ。
「何かそれらしい言葉を教わらなかったのかい」
勘兵衛に言われるままに、源光は師の教えの一つを口ずさんだ。
「当派は陰陽一対、太極の混沌。
有無一対、正邪一対も亦然。留むる事を嫌ふ。
唱ずれば留まり、流るれば唱ずらん。
流の法にて与えせしむる」
「それだ!」
意味も解らぬままに、勘兵衛は膝を叩いた。
「それって?」
源光がきょとんと首を傾げる。
その仕草は桃乃井を思わせるような、あどけない稚拙さだった。 「流の法にて与えせしむるさ」
「流の法ですか」
「どうだい?」 「良い名ですね」
流の法の評判は上々だった。 勘兵衛に至っては小躍りせんばかりである。なによりも、噂を流した並木屋の鼻の穴を開かせた事が、嬉しくて堪らなかったのだろう。
「並木屋の連中も、さぞや悔しかろうよ」
人が悪そうに、にやにやと笑った。
「安心などは致さぬ事だ。並木屋は、ただでは起き上がらぬ」
尚庵はこの町に住んでいたのだから当然だが、旅芸者の勘兵衛達より、並木屋の噂を識シっている。 かなり非道な噂もあり、何度かお調べを受けた事もあるのだが、その度に証拠不十分で無罪放免になってしまう。 尚庵の話を聞いていて、そのうち勘兵衛は鼻で笑った。 いくらお役人を味方に付けていても、そうおおっぴらに脅していれば、庇カバいきれるものではない。 商売が出来て、暴力沙汰に成る事も無いのなら恐れる事など何も無い。
勘兵衛は固く、そう信じていた。
尚庵も並木屋の一件を目の当たりにしているだけに、勘兵衛の考えがよく解った。だが、胸が騒いで仕方が無いのだ。
「何も無ければ良いのだが…」
「なぁに、鹿さんの足が治るまでさ。そしたら、さっさと出て行くよ」